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私のあしあと [海外体験昔話]

 
 
  
                    2012年9月7日 Revised
 
もう一つ発見:
 
onemore passport.jpg箪笥の奥から1998年6月1日発行の10年有効パスポートが出てきました。  
  
出入国記録が渡航履歴とほぼ一致しており下記の海外履歴に変更はないと思われます。現在使用中の10年有効パスポートの発効日が2008年7月2日ですから、此れまで40年間ほぼ連続してパスポートを持っている感じです。

 
 


 
   
                     2011年8月13日UP
私のパスポート

上段左より1972年、1977年、1982年、1987年、1992年発行の5年有効パスポート。上段右端は現在使用中の10年有効パスポート。 下段左、緑色の公用旅券は1982年~1987年にフィリッピン、パラグアイ、ブラジルに日本政府の仕事で渡航したときのもの。下段右の2冊は1982年と1983年に北朝鮮に行った時の各々1回限りのもの。(1回目国連ICAOの依頼、2回目朝鮮系商社の依頼によるもの) 

DSCN2823.JPG 

  
私の海外履歴
 
下記データーは小生が1972年~2011年1月までに宿泊した国別、都市一覧表である。

宿泊は51ケ国、109都市で累計1946泊となる。データの右端には30日以上宿泊した都市15、国数16を示している。国数で1多いのは米国での宿泊が30泊以下の都市が多いのに国単位の累計が92泊と30泊を超えたためである。データーは過去の出張報告や費用精算、パスポート上の記録から長年にわたり収集したものである。トランジット・ステイや日帰り旅行の日数はローマのバチカンを除き含まれていません。

拡大して見やすいようにエクセルシートからPDF化したものの、この無料ブログでアップロードできない事を知り4分割の細かいJPEGデータとなってしまった次第です。見づらいと思いますがご容赦下さい。


A1MaraysiaPenang1996.JPG

A1MaraysiaPenang2011.JPG
  
 
A2MexicoCancun1996.jpg
A2MexicoCancun2011.jpg

 


世界のお札コレクション [海外体験昔話]

                              2011年8月22日UP
  
我が家の箪笥の奥から見つかった世界の古いお札のコレクションです。今やヨーロッパもEURO一色で味気無くなりましたが、一昔前まではお財布に入っているとうれしくなるようなカラフルなものもありました。何れも現在はほとんど骨董品としての価値のみかと思います。実際の大きさはまちまちですがブログで扱いやすいよう全て500ピクセル幅に加工してあります。


 
France Fran F.JPGフランス・10フラン 表 
France Fran R.JPGフランス・10フラン 裏

 
Deutsche Mark 50 F.JPG ドイツ・50マルク 表
Deutsche Mark 50 R.JPG ドイツ・50マルク 裏
Deutsche Mark 20 F.JPG ドイツ・20マルク 表
Deutsche Mark 20 R.JPG ドイツ・20マルク 裏
Deutsche Mark 10 F.JPG ドイツ・10マルク 表
Deutsche Mark 10 R.JPG ドイツ・10マルク 裏

Belgique Francs 20 F.JPG ベルギー・20フラン 表
Belgique Francs 20 R.JPG ベルギー・20フラン 裏

CCCP Rouble 200 F.JPGCCCP・200ルーブル 表
CCCP Rouble 200 R.JPGCCCP・200ルーブル 裏
CCCP Rouble 100 F.JPGCCCP・100ルーブル 表
CCCP Rouble 100 R.JPGCCCP・100ルーブル 裏

Iraq half Dinar F.JPGイラク・ハーフディナール 表
Iraq half Dinar R.JPGイラク・ハーフディナール 裏

Iran 200 Rial F.JPGイラン・200リアル 表
Iran 200 Rial R.jpgイラン・200リアル 裏

MEX 5000P F.JPGメキシコ・5000ペソ 表
MEX 5000P R.JPGメキシコ・5000ペソ 裏
MEX 2000P F.JPGメキシコ・2000ペソ 表
MEX 2000P R.JPGメキシコ・2000ペソ 裏
MEX 1000P F.JPGメキシコ・1000ペソ 表
MEX 1000P R.JPGメキシコ・1000ペソ 裏

Venezuela 100 Bolivares F.JPGベネズエラ・100ボリバール 表
Venezuela 100 Bolivares R.JPGベネズエラ・100ボリバール 裏
Venezuela 200 Bolivares F.JPGベネズエラ・20ボリバール 表
Venezuela 20 Bolivares R.JPGベネズエラ・20ボリバール 裏 

Cplombia 200 Peso F.JPGコロンビア・200ペソ 表
Cplombia 200 Peso R.JPGコロンビア・200ペソ 裏

Peru 50000 Soles F.JPGペルー・5万ソーレス 表
Peru 50000 Soles R.JPGペルー・5万ソーレス 裏

Chile 500 Peso F.JPGチリ・500ペソ 表
Chile 500 Peso R.JPGチリ・500ペソ 裏  

Paraguay 1000 Guaranies F.JPGパラグアイ・千ガラニ 表  
Paraguay 1000 Guaranies R.JPGパラグアイ・千ガラニ 裏 

Brasil 10000 cruzeiro F.JPGブラジル・1万クルゼイロ 表 
Brasil 10000 cruzeiro R.JPGブラジル・1万クルゼイロ 裏 
Brasil 5000 cruzados F.JPGブラジル・5千クルザード 表 
Brasil 5000 cruzados R.JPGブラジル・5千クルザード 裏 

Argentina 1milliom Pesos F.JPGアルゼンチン・百万ペソ 表 
Argentina 1milliom Pesos R.JPGアルゼンチン・百万ペソ 裏 
Argentina 50 Pesos F.JPGアルゼンチン・50ペソ 表 
Argentina 50 Pesos R.JPGアルゼンチン・50ペソ 裏 
Argentina 1 Austral F.JPGアルゼンチン・1アウストラル 表 
Argentina 1 Austral R.JPGアルゼンチン・1アウストラル 裏 
Argentina 50 Australes F.JPGアルゼンチン・50アウストラル 表 
Argentina 50 Australes R.JPGアルゼンチン・50アウストラル 裏 

Jamaica 2 $ F.JPGジャマイカ・2ドル 表 
Jamaica 2 $ R.JPGジャマイカ・2ドル 裏 

NZ 20 $ F.JPGニュージーランド・20ドル 表 
NZ 20 $ R.JPGニュージーランド・20ドル 裏 

Singapore 1 $ F.JPGシンガポール・1ドル 表 
Singapore 1 $ R.JPGシンガポール・1ドル 裏 

Malaysia 1 Ringgit F.JPGマレーシア・1リンギット 表 
Malaysia 1 Ringgit R.JPGマレーシア・1リンギット 裏 

Phillipine 5 Piso F.JPGフィリッピン・5ペソ 表 
Phillipine 5 Piso R.JPGフィリッピン・5ペソ 裏 

Korea 500 won F.JPG韓国・500ウォン 裏 
Korea 500 won R.JPG韓国・500ウォン 表 

DPRK 1 won F.JPGDPRK・1? 表 
DPRK 1 won R.JPGDPRK・1? 裏 

India 2 Rupee F.JPGインド・2ルピー 表 
India 2 Rupee R.JPGインド・2ルピー 裏 

Bhutan 1 Ngrutrum F.JPGブータン・1ヌグルトラム 表 
Bhutan 1 Ngrultrum R.JPGブータン・1ヌグルトラム 裏 

China 2 Jiao F.JPG中国・2角 表 
China 2 Jiao R.JPG中国・2角 裏 
China 1 Jiao F.JPG中国・1角 表 
China 1 Jiao R.JPG中国・1角 裏 
China 5 bu F.JPG中国・5分 表 
China 5 bu R.JPG中国・5分 裏 
China 2 bu F.JPG中国・2分 表 
China 2 bu R.JPG中国・2分 裏 

 
小生の廻った国全部のお札ではありませんが、旅のご参考になれば幸いです。お金をスキャンしてよいものか迷いましたが、何れも古いお金なので問題ないかと思いブログに乗せちゃいました。

別室送り@マイアミ空港 [海外体験昔話]

                              2011年8月18日UP
    
中南米に頻繁に行き来していた1989年か1990年頃のある日の話。
 
DSCN2770.JPG南米からマイアミ空港に戻った時の入国審査(イミグレーション)で、ほぼ毎回のことだが延々と行列が出来ているにも関わらず女性審査官がたった一人で行列を意に介さず実にスローな審査をしていた。近くに行くとパッセンジャーの1人1人と長々とお喋りをしている。30分位待たされ早くしてくれ~とフラストレーションが溜まったころ小生の番が来た。
  
DSCN2770.JPGイミグレーションカードと日本までの航空券をパスポートに挟んで提出したところ、ざっと目を通した後、笑顔で「旅行の目的はなんですか?」と良くある質問をされたのだが小生の虫の居所が悪かったようで「It’s written there!」=「其処に書いてあるでしょう」と答えた所。突然笑顔が怒りの顔にかわり、デスク上の赤ボタンを押されてしまった。同時にブース上部の大きなランプが赤表示となり男性係官が飛んできて小生の書類一式を持ち「後に着いてこい」と言った。
 
DSCN2770.JPG別室では怪しげな風体の男共が十数人居たと思う。背広にネクタイのビジネスマン風は小生のみ。かれこれ30分くらい待たされた後係官に呼ばれ「何があったのか?」との問いに「入国審査で随分待たされたので審査官に対しぞんざいな口を聞いてしまったのが原因の様だ、以後気をつけます」と答えたところ。 「気をつけろよ。」と言われたのみでパスポートとエアーチケットを返して貰えた。
 
幸いマイアミで1泊する予定だったので助かったが、乗り継ぎトランジットの場合、飛行機に置いて行かれるところであった。
 
「入国審査官には絶対に逆らってはいけない」という話でした。
 
  
PS:日本発米国経由南米行きの際の税関での注意
 
税関申告書で「米国内に持ち込むxxx$以上の物品を持っていますか?」なる質問に、一旦米国に持ち込んで、その後に中南米に100%持ち出す場合は、「NO」と答える必要があります。もしうっかりして「YES」と答えた場合は、「はい税金xx$を払ってきてください」と宣告されます。 この後、実は勘違いで米国内に持ち込む物は無いと言っても、言い直しは認められず後のまつりとなるので要注意です。
 


スペイン語体験@中南米 [海外体験昔話]

                             2011年8月11日UP

勤務地東京の状態で、1978年~1984年の7年間フィリピンを担当した後、一人で中南米全域を担当することになった。 スペイン語の知識は全くなく現地に行けば何とかなるだろうと言う状態で1985年に初めて南米一人旅をしていたときの話。
 


 
鍵持ってますか?
 
DSCN2768.JPG南米パラグアイの首都アスンシオンでの話。 毎日13:00~16:00位が長い昼休み(シエスタ)の時間帯だったのでレストランでゆっくり食事したあと、ホテルに帰りしっかり昼寝。
 
その後、仕事に戻ったが鍵がかかっていて部屋に入れない。守衛室に行ってスペイン語で Do you have key for room xxxx? と言ったつもりだが全く通じない。十数分後鍵を持っている人が来て夜8時頃まで仕事ができた。 夕食のとき日本人の先輩に聞いた所、何て言ったのかと言うので、「テンゴ・ジャーベ・パラ・アビタシオンXXXX?」と言ったと答えた所、「基本が成っていないから通じないのだ」と言われた。 Have動詞に限らずスペイン語では人称によって動詞が大きく変化する。
 
I have       ジョ・テンゴ
You have    トウ・ティエネ
He/She has エル/エジャ・ティエネ
We have    ノソトロス・テネモス

 
と行った具合で、「テンゴ」を使うと私以外にはありえないので人称の「私」が省略される。即ち、「テンゴ・ジャーベ?」では、「俺鍵持ってる?」と話しかけていた訳で通じない訳だ。 翌日からしっかり「ティエネ・ジャーベ?」と言えるようになったと言う話でした。



   
妙な話
  
DSCN2768.JPG「Yoshida」さんは、スペイン語圏では、「ジョシダ」と発音されるが、初めて吉田さんに会う人は必ず複雑な顔をする。 何故かと言うとシダとはAIDSの意味でYOもヨではなくスペイン語ではジョと発音され「ジョ・シダ」=「俺、エイズ」となるからだ。
 
因みにカナダの国際協力機関の名前もCIDAであり中南米では微妙な名前である。
  
又、自動車のパジェロも中南米ではモンテロと名前を変えていた。理由はPAJEROではナニヲ・コスル意味が有るためだ。MONTEROのほうがハンターと言う意味で無難だ。
 
シモネタの連続で恐縮だが、ある日、ボゴタの国営放送局でVTRに関するセミナーを開催することになりブラジルから日系技術者に来てもらった時のことである。
コロンビアでの販売会社のディレクターの車で3人で移動中、技術者の様子がおかしい。 どうもバスの停留所をまともに見れないようだ。 聞いてみると、バス停に書いてある文字が気になるらしい。
 
バスはスペイン語でブスだが、ボゴタのブスは中型であり、愛称としてブセッタと名付けてある。これで「パラダ・デ・ブセッタ」=「ブセッタの停留所」となるが、何とブラジルではブセッタが女性の恥ずかしい部分の名前らしい。技術者が目の置き場に困った訳だ。
 

 
数の数え方2
 
DSCN2768.JPGコロンビアの首都ボゴタのある役所を訪問したときの事。 受付を通り、エレベータに乗ったが朝の通勤時間帯で多くの職員ですぐに満杯になった。 8階のボタンを押したいが身動きできない。 たどたどしいスペイン語で「オチョ・ピソ・ポルファボール」と言ったところ、年配の女性から「オクターボ・ピソでしょう?」とやられ「シー」と答えた。
 
しかし小生の頭の中は階数とは無関係な「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」のオクターブを考え、1~8と指を折っていた。「何て素晴らしい言葉なんだ」との驚きもあった。
 
英語と同じようにスペイン語にも序数がある。
 
1st: Primero 以下全て女性名詞には_oを_aに変えて使う
2nd: Segundo
3rd: Tercero
4th: Cuarto
5th: Quinto
6th: Sexto
7th: Septimo
8th: Octavo
9th: Noveno
10th: Decimo、 11th: Undecimo、12th: Duodecimo、 13th: Decimotercero
 
と言ったぐあいである。

 


 
数の数え方1
  
DSCN2768.JPGペルーの土産物店で、ある商品の値引き交渉中思わず叫んだ「シンコ・シェントス」。店員が600ペソにならしてやると言った直後、小生は500ペソにしてくれと言ったつもりだが、店員はこの人何を言ってるんだろうと言った感じで、一瞬会話が途絶えたあと、
 
小生の意を解してケタケタ笑い出した。ノー・セニョウル ・キニェントス!500はキニェントスと言うんだよと教わった。数はマスターしたつもりだが以下のように500のみの変化を忘れてしまっていた様だ。 言い方は間違えたが意思を曲げない交渉の結果500ペソにして貰った記憶がある。 
 
因みに他の数、
 
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10は
ウノ、ドス、トレス、クワトロ、シンコ、セイス、シエテ、オチョ、ヌエベ、ディエスなので
 
100 シエント
200 ド・シェントス
300 トレ・シェントス
400 クワトロ・シェントス
500 キニェントス not シンコ・シェントス
600 セ・シェントス
700 セテ・シェントス
800 オチョ・シェントス
900 ノベ・シェントス
 
因みに以下の数にも要注意だ。
 
11 オンセ
12 ドーセ
13 トレセ
14 カトルセ
15 キンセ
 
16 ディエス イ セイス
19 ディエス イ ヌエベ
 
20 ベインテ
30 トレンタ
40 クワレンタ
50 シンクエンタ
60 セセンタ
70 セテンタ
80 オチェンタ
90 ノベンタ
 
1000  ミル
2011は ドス・ミル・オンセ となる。

電話番号を相手に伝えるときなどは、2桁づつ、伝える。09085462713は「セロ・ノベンタ」「オチェンタ・イ・シンコ」「クアレンタ・イ・セイス」「ベインテ・イ・シエテ」「トレセ」となる。 イはandの意味である。


まさかお食べに事件@チリ [海外体験昔話]

                             2011年8月9日UP
  
DSCN2771.JPG1987年から1990年にかけて通算40日ほど仕事で首都のサンチャゴに出入りしていた頃の話。ある国の現地大使館に勤務する新婚さんがご夫婦でスキー場に連れてってくれるとの事でジョインさせて頂いた。
 
行ったスキー場の名は覚えていないが、サンチャゴの町から車で2~3時間ほど山を登ったと思う。フランスかドイツのリゾート開発会社が造ったと言う標高3000メートル超の雪質抜群の高級リゾートだった。ヘリコプターでヘリスキーをやっているお金持ちも居た。
 
招待のお礼に昼食代は小生が払う約束をしてレストランと集合時間を決め、スキーは新婚さんの邪魔をしないよう別行動をした。標高が高いだけあって動くと結構息がきれる。でもスキーヤーが少ないので快適だった。 落差が700~800メートルはあり、一気に滑ろうとすると膝ががくがくした。
 
DSCN2771.JPG昼食時の話である。新婚さんは何を頼んだか覚えていないが、小生はステーキと赤ワインを頼んだ。 会話が弾み、小生がステーキ皿の上の青物生野菜(多分クレソン)に手を出したとき「何をなさるんですか、まさかお食べになるのでは?」と言う奥様の声に吾に返った。
 
高級レストランだから大丈夫だろうと気を緩めていたのだが、ブラジルを除く中南米では当時、土の近くで育った青物野菜や、イチゴの様な果物を生のまま食べる事は日本人には厳禁であった。 火を通してあれば良いが、生のまま食べると間違いなく肝炎になり長期間寝込むことになる。 現地の人は身体に抗体があるようで全く平気で食べていたが、箱庭の無菌状態で育った日本人にその抗体は無いようだ。 木の上で育つりんご、バナナ、パイナップルやオレンジ等の果物は大丈夫だ。 但しイチゴは厳禁。
 
当時日本から中南米へのアクセスは、米国のマイアミ、ロス、ニューヨーク、カナダのトロント経由が一般的であった。直行便以外の乗り継ぎ便で時間に余裕がある時は、それらの都市で最後の新鮮生野菜サラダをたっぷり食べてから中南米各国に向かった。
 
以上、生野菜と肝炎の昔話でした。
 


両替詐欺事件@アルゼンチン [海外体験昔話]

                             2011年8月7日UP
 DSCN2766.JPG 
1985年から1990年にかけて仕事でアルゼンチンのブエノスアイレスに通算で42日間ほど訪問していた頃の話。事件は1989年か1990年のある日だったと思う。
 
当時の通貨は、1985年6月15日に「ペソ・アルヘンティーノ」から「アウストラル」に切り替えられた。当時ブラジルも同じだったが、ハイパー・インフレで半年ほどでお金の価値が1000分の1位になり、訪問するたびにゼロを三つ指で押さえて円換算額を把握した記憶がある。(話は一寸横道それるが、こんな時庶民は大型の冷蔵庫を買い、今手に入る食料品を大量に買い込む。 なぜならば明日は確実に商品価格が値上がりするからだ。) 
 
Argentina 1milliom Pesos F.JPGアルゼンチンの場合、写真の様な百万ペソなんてお札が堂々と街中で使われていた。インフレで、その通貨ではゼロが多くなりすぎて困る様になった段階で、通貨切り替えが行われ、古いお札の新通貨への交換が期間限定で行われていた。交換期間を過ぎた旧通貨は使えなくなる。
 
小生がアルゼンチンを訪問しだしたのがちょうど1985年からである。TVや新聞では連日US$とAustralの交換レートが報じられていた。 しかもオフィシャル・レートとパラレル・レートの二通りのレートが報道されていた。パラレル・レートとは市中の標準的な闇レートである。
 
DSCN2767.JPG1週間ほど滞在したホテルのチェックアウトを翌日にひかえたある日の朝、ホテルの朝食にも飽きたので町のカフェに向かうことにした。
 
途中、良いレートで両替するよと言う男の前を通り過ぎようとしたとき、自分は店を構えた人としか取引しないけど貴方は店を持っているか?と聞いた所、シー・店はアソコだと言う答えが返ってきたので、分かった朝食後に400US$両替すると言って一先ず分かれた。
 
カフェで朝食後、例の男に会ったが、市庁舎の役人が今見回っているから5分待ってくれと言われ待った。数分後、もう大丈夫と言われ、先程指差した店の横のエレベーターホールに私を連れていった。
 
何だお店ではないじゃないか?と言って分かれようとした時、第二の男が現れ、計算機で400X約束のレート=xxxAustral と計算して見せ、手持ちの金を数えて見せた。可也分厚い札束だ。お店では無いが現金を見せて納得させようとしているなと思い、お金を引き寄せようとすると、ぐっと強く握り話してくれなかった。
あ、そうかひったくって逃げると思われたのかもと思い、400$をポケットから出して渡そうとした瞬間、
 
第三の恰幅の良い男がエレベータに乗る様子で現れ、お金を持っている第二の男が小生に背をむけた。あ、そうか先程言っていた市庁舎の役人が取り締まりに来たのかと思った。
 
DSCN2766.JPG第三の男がエレベーターに乗りドアーが閉まった瞬間、第二の男と小生の間ですばやく両替を済ませた。直後に又第三の男がエレベーターから出てきて私のあとをついてくる、拙い、ホテルまで急いだ。途中男が見えなくなったので、ポケットに手を入れ札束を確認した。でも、先程なかった輪ゴムが巻かれている怪しい。輪ゴムを外して確認したところ、中身がサンドイッチ状に成っており、一番外側は今も使えるお札だが中に価値ゼロの旧通貨が大量に挟まれていた。価値にすると、400$と数千円位の両替をしてしまった事になる。
 
念のためホテルのフロントで事情を話し、このお札は使えるかと聞くとにやにや笑われ使えませんと言われた。部屋に戻り、国際電話で妻に泣き言を言った、「400$で殺されなかっただけ良かったじゃあない」と慰められ立ち直れた。
 
以上、両替詐欺の話でした。 闇取引にはご注意下さい。
 
PS:因みに今のアルゼンチンの通過は1992年以降、新たな「ペソ」に戻っている様だ。

下の写真は「ペソ・アルヘンティーノ」と「アウストラル」。両方とも現在の価値はゼロだ。

DSCN2753.JPG
 

アタッシュ盗難事件@メキシコ [海外体験昔話]

                             2011年8月6日UP
  
DSCN2729.JPG1985年から1990年にかけて仕事でメキシコに可也頻繁に(6年間通算で90日弱だが)通っていた頃の話。確かでは無いが事件は1987年の夏のある日だったと思う。
 
メキシコのラジオ局への機器設置工事の仕事が予定より2日ほど早く終り、週末でも有ったので協力会社の社長さん、技術者と小生の3人で帰国前にカンクン旅行に行く事になった。

シェラトンホテル@カンクンの部屋を3人分確保出来たが、行きの飛行機が2人分しか取れなかったので小生のみキャンセル待ちする事になった。飛行機の出発時間は早朝。
 
前夜はラジオ局の皆さんの大歓迎を受け、マリアッチの鳴り響くバーで、パランダ~~~と叫びながら男同士、夜通し飲み歩く事になった。飛行場に出発する時間になっても帰して貰えず困っていたが、何とか3人でその場を脱出しホテルを大慌てでチェックアウトして空港に向かった。
 
DSCN2729.JPG空港では、お二人のチェックインを終え、自分はキャンセル待ちの列に居た。サムソナイトのアタッシュケースは足元で両足の間に挟み、スーツケースを右手に押さえた状態で待っていたと思うが。ふと足元を見ると、数秒前に確認したアタッシュが無い。ヤラレターと足元から熱いものが上がってくる感じがした。
 

幸い、パスポートとカンクン往復の国内線チケット、それにシェラトンのバウチャーはポケットで無事だったが、100万円近くする国際線の切符(東京→メキシコ→ロス→リオ→モンテビデオ→ブエノスアイレス→サンチャゴ→ボゴタ→パナマ→ニューヨーク→東京)、3000$ほどのT/Cと数百$のキャッシュ、クレジットカードが3枚、それに直前のブラジル出張1か月分の未清算の数十万円分の領収書の束がカバンと共に消えた。
 
呆然としていたところ、協力会社の社長さんから声がかかり、「お金持ってますか?」「あ無い、貸してください」、「国内線の離陸まで時間が無いからお二人はゲートに向かって下さい」、「私は事後処理があるので今回は行くのを止めます」とか言う会話を交わしたと思う。
 
DSCN2729.JPG借りたお金で、チェックアウトしたばかりのホテルに戻り、此れまでと同じ部屋に事情を言って入れてもらい、国際電話がかけられるようにしてもらった。東京の妻に電話を入れ、カバンが盗まれたことを話し、クレジットカード会社への盗難届けも依頼した。
 
その後、国際線のチケット発行会社JALのオフィスに行き、事情を話したところ、重要顧客なので再発行してくれると言う。ただし、盗まれた切符が悪用されJALが損害をこうむった場合には損害額を全額保障する旨の書類にサインさせられた。一応、航空券問題はこれで解決。
 
次に、AMEXの事務所に行き、パスポートを見せ事情を話したところ、AMEX東京から私にクレジットカードを再発行するよう依頼をうけていると言う。助かった。日本の夜中に妻に電話をいれてもらって未だ2~3時間もたっていない。そのスピード感には感謝と共に驚いた。

恐る恐る、T/Cも再発行してくれるか?と聞いた所、幾ら欲しいのか? 3000$ほどです。 OKですとの返事があった。AMEXは年間1万円の会費が必要だが、海外に行かれる方には超お勧めです。何とか、切符と活動資金が確保出来、当初の旅程は替えずに仕事ができる。
 
その後、盗難に関して、ラジオ局への機器納品を手伝ってもらったメキシコの会社社長の親父さんに付き添って貰って空港警察へ、事情聴取を受け数ページにわたるスペイン語での盗難事故証明を発行して貰ってホテルに帰った。
 
DSCN2729.JPGその後、メキシコからロスアンゼルスに上りアタシュケースを購入、日本から来る技術者と待ち合わせて、リオ経由ウルグアイのモンテビデオ迄向かう。リオでは乗り継ぎに6時間もあった為、大型荷物を空港に預け、技術者の為タクシーでのリオ半日観光にでた。ポン・デ・アスカーやコパカバーナの海岸、シュラスコ料理店等を回り、夕方の便でモンテビデオに到着した。
 
モンテビデオでは9泊し、放送局での機器納品を終え、技術者の帰国を見送ったあと、南米各地への営業一人旅に向かった。
 
モンテビデオ滞在中にパナマの販売会社社長から連絡があり「貴方のアタッシュケース見つかったけど、こじ開けられて使い物にならない故中身だけメキシコ販社の社長から預かってパナマにもってきている」とのこと。 すかさず、「書類の中で、封筒に入ったブラジルの領収書の束があるか」聞いたところ、「有るとの事」。金目のものだけ抜き取り、カバンは空港近くのホテルのゴミ箱から発見されたとの事でした。
 
ラッキーなことに、JALやAMEX、それに妙な話だがドキュメントには手をつけないと言うメキシコの窃盗団、のおかげで実害はカバン代と数100$のキャッシュ、目覚まし時計や文房具のみの10万円以内の損害で済んだ。
 
パナマでは、それらの書類を受け取り、ニューヨーク経由帰国。


DSCN2729.JPG当時のパナマの社長からは、「中南米では地面に物を置くと捨てたとみなされる」だから「貴重品からは手を離すな」。また防犯上、中南米では「路上で何かを要求されたら全ての要求を呑め。取られて困るものは持ち歩くな。抵抗は死を招く」と言う話を聞いた。
 
帰国後の失敗は、忙しさにかまけ、JALカードの盗難保険の請求を忘れたことだ。事故証明書も手元に有ったのに残念。古い話で今は治安が良くなって居るかも知れませんが、皆様お気をつけ下さいませ。

PS:メキシコシティーの空港で借用したお金は帰国後に社長さんに返したのだが未だに、まだ返して貰っていないとからかわれ続けている。
 


赤痢事件@フィリッピン [海外体験昔話]

                            2011年8月5日UP
  DSCN2729.JPG 
 


1978年から1984年にかけて、
大手電気メーカーの仕事でフィリピンのマニラに通算400日強通っていた頃の話。 1983年にセブ島に3泊した記録があるので多分その頃だったと思う。当時の小生の年齢30才。
 
マニラで予定の仕事をほぼ終え帰国しようと考えていたとき、東京の上司より電話がかかり、「新製品の性能を示すデモンストレーション・テープ撮影チームがマニラに着くので、被写体となるモデルを2名捜し撮影のアシストをせよ」との指示を受けた。
 
モデルさんには細かい指示があり、白人系ミスティーサとモレナ系茶褐色ミスティーサの2名、希望年齢20前後だったと思う。俳優やモデルには全く縁が無く困り果てた末に当時 Culture Center of the Philippines 傘下の、ある組織のディレクターに相談した。彼は目を輝かせて引き受けてくれた。
 
数日後、私の宿泊しているホテルの部屋の隣にもう一部屋とり、候補者10名ほどへの説明会件オーディションをやることになった。審査員はカメラマンほか数名。水着での撮影も予定していたので、審査員から、水着撮影は良いか?2ピース水着でも良いか?ビキニ撮影でも良いか?
と段階的に聞いていった。驚いた事に水着撮影の質問の段階で2人ほどがNOと答え辞退した。皆カトリック教徒なので躾けが厳しいのだろう。何とか希望の2名を選び、マニラ→イロイロ島→セブ島の順に撮影が進んで行った。
 
セブ島では、島内での撮影のほか、島の反対側にある無人島(たしかバジャン島だったと思う)での撮影も準備した。その無人島に向かうという前夜、東京より帰国の指示が届いた。美女との仕事の方が楽しいので抵抗したが許されず、言われるまま帰国した。

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翌朝の金曜日、出社したところ、20~30分間隔で寒気と、此れまで体験したことの無い、呼吸が出来なくなる程の腹痛がおそってきたので、翌週からの仕事を考え、昼頃に早退する事にした。自宅では、風邪薬をのみ未だ5才の娘の昼寝中の横に布団を敷き休んだ。発熱と下痢が続き、翌々日の朝、出るものが無くなって便器が綺麗なピンク色に染まったので妻を呼び見てもらったところ、「どうする、貴方ほぼ間違いなく赤痢よ」と言われ、家の近くの済生会中央病院に行った。
 
医者曰く「生憎日曜日なので検査が出来ない。赤痢に間違いないと思うのですぐに都立荏原病院に行ったほうが良い」とのこと。一先ず自宅に帰り119に電話して救急車を依頼。理由を聞かれたので赤痢の疑いと言ったところ「伝染病の疑いのある方は乗せられません」とのこと。どうすれば良いのか聞いたら「保健所に電話してくれ」との事だったので掛けたところ、「生憎、車が出払っていて、すぐには手配できない」といわれた。
 
仕方なく、一人でタクシーで都立荏原病院に行ったところ、即、隔離病棟に入院。以降家族とも面会謝絶となった。病棟内でも他の患者と接触しないようたった一人なのに大部屋に隔離された。共同のトイレも使用禁止となり「おまる」が部屋の隅に置かれた。人に会うとしても2M以内に近づいてはいけない。 公衆電話も有ったが、使うときはコインとタオルを消毒液の中に漬け、手と受話器をタオルで拭き、コインを投入。そのあとタオルを指に巻いてダイヤルを回すよう指示された。
 
入院はしたものの、病原菌が特定できるまでは何の治療もしてくれない。
 
寒気がおさまらず、看護師に風邪薬の処方を頼んだが、我慢してくださいとの答え。
数日後には、下痢便はチョコレートの様な黒茶色となり、外側が蛙の卵の様なゼリー状のものに包まれだした。看護師に聞いたところ、腸壁が菌に冒され便といっしょに出てきているとのこと。
 
入院中毎朝、寝起きにおしりの穴に太い綿棒の様なものを差し込まれ、ぐりぐりされた。結構痛い。粘膜を採取して菌を培養するらしい。
  
1週間くらいたった頃培養の結果がでて、小生の赤痢菌が「ソンネ菌」だと判明。
薬が処方された。薬を飲むとすぐに効き、下痢も熱もあっと言う間に退いていった。
  
「アメーバー赤痢」で無くて良かったですね」と看護師に言われた。アメーバー赤痢だと菌が血液を通して体中に回るので回復に1ヶ月はかかるが、「ソンネ菌」は治療開始後1週間位で退院できるとのこと。
 
実際、順調に回復し退院日には入浴が許された。入り口と出口の違う浴室で身体を洗い、妻が差し入れてくれた衣類に着替え、いざ釈放!いや退院!
迎えに来てくれた妻と共に帰宅し、翌日からの出社に備え、会社の皆にお詫びとして配るクッキーを購入。

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出社したところ職場の皆が冷たい。聞くと小生の赤痢確定の段階で、職場全体、トイレ、小生のデスクやアタッシュケース等々、保健所が来て徹底的に消毒薬をまかれたとの事。本人も入院中大変だったが、自宅や職場も大変だったようだ。因みに自宅では寝ていた布団やステレオ等小生が触ったものや、マンションの側溝は全て消毒液をかけられ大変だったとの事。
 
取り敢えず職場の人たちみんなに謝罪して回った。

赤痢にかかった原因は未だに分からない。 当時吸っていたタバコのフィルター部分を汚れた手で引っ張り出すときに口に菌が移ったのかとも考えたが、医者によるとその可能性は無いだろうとの事。 後は菌が付着したものを食べたのが原因かもしれない。 因みに当時のフィリピンでは、赤痢やコレラの患者を病院に隔離するシステムは無かった。 町で普通の生活をしているので、その患者が料理を造ったとも考えられる。

医師曰く「貴方は此れまでにも何回か赤痢やコレラにかかって居たのかも知れない。かかっても体力が充分あって、発病しなかったのではないか」とのことだった。

職場復帰して数日たった頃、上司から労災の申請に行って来いと言われ労働基準局に行ってみた。 貴方は業務中に、どこで、何の原因で赤痢にかかったのかを証明できるか? 一緒に行動し同じように赤痢にあった人が居るか?と問われ、原因不明の状況では申請不可能と思い断念した。

以上、古い話なので参考にならないかも知れませんが、今後旅行をされる皆様の自己防衛の参考になれば幸いです


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